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国際金融センター

 株式市場や為替市場といった金融関連の分野において、香港の地位は高いです。ニューヨーク/ロンドンといった金融における世界の中心的な役割を担う都市に次いで、世界金融センターランキングにランクされているほどです。


 ■ 南京条約と北京条約について


 香港の歴史で、発展の鍵となったのがイギリス植民地時代です。これは、清の時代におこったアヘン戦争の後の条約締結により始まります。当時、イギリスの上流階級の間では、喫茶の風習が流行していました。そのため、イギリス東インド会社が、茶葉/陶器/絹などの買い付けに清へと来航し始めました。そして、これらの物品の大量輸入をおこなっていました。


 一方で、イギリスから清へと輸出できるものといえば、富裕層向けの時計望遠鏡くらいしかありませんでした。しかし、これらは大量輸出できるような物品ではありません。その結果、二国間の貿易において貿易摩擦が深刻化することとなります。この貿易は、イギリス側に圧倒的な貿易赤字を発生させる取引となってゆきます。


 ここでイギリスは、大量輸出が可能な品を用意することにしました。それがインド産のアヘン(ケシの実から生成される麻薬)です。これを取り寄せ、清の国内へと密輸することによって貿易摩擦の正常化を図りました。しかし、清では既に健康被害を問題視していたため、アヘンの輸入を禁止していました。


 この密輸が続いた結果、今度は二国間の貿易摩擦が逆転します。この事態に手を打たねばと、清も色々と対策を講じました。そして、最終的にアヘンの輸入を完全に規制する方針を清朝が立てたのです。これに腹を立てたイギリスとの間で、ついには争いが起こってしまいます。これが、” アヘン戦争 ”です。この後、第二次アヘン戦争とも呼ばれる” アロー戦争 ”も勃発します。


 これらの戦争の結果は、どちらもイギリス側の勝利となります。その後、南京条約/北京条約が締結され、” 香港島/九龍半島 ”が一度、イギリス側に割譲されることとなります。さらにイギリスは、” 九龍以北(新九龍と呼ばれている新興市街地を含む)エリア/深圳(しんせん)河以南の新界地域 ”の租借を清朝に迫りました。


 これを” 租借期限付き ”ではありますが、成功させます。その期限は、「 99年 」です。これは当時、1898年7月1日の出来事でした。つまり、この租借の有効期限が切れる日付が、1997年6月30日ということになります。これがイギリスから中華人民共和国(=中国)へと、香港の返還がおこなわれた大きな所以なのです。


 ■ イギリス植民地時代の始まりについて


 このイギリス植民地時代において香港は、中国大陸における資本主義の拠点として栄えていきます。元々の地形が、まさに天然の良港と呼ばれているほどです。貿易の拠点とするには、非常に良い地理条件にありました。



       香港周辺における天然の地形


 ここの統治は、香港政庁(イギリスの植民地統治機関・政府)がおこないました。19世紀の末期から20世紀の初頭にかけて、香港は中国国内と中東・東南アジアとを結ぶ中継貿易拠点として大きな発展を遂げます。同時にイギリス文化も、この地での広がりをみせ始めました。大学ができたり、競馬場ができたりと生活環境が少しずつ変化していきました。香港の金融面における出来事で言えば、スコットランド人のトーマス・サザーランドにより香港上海銀行(HSBC)が創設されています。


 香港政庁(政府)の香港経済に対する” 統治のやり方 ”は、基本的に現地経済に関しての” 政府介入を避ける ”というものです。これは自由放任政策と呼ばれ、この姿勢を頑なに貫いていました。つまり中継貿易港としての発展には、特に口を出してこなかったわけです。


 しかし、1950年よりに起こった朝鮮戦争後、香港経済も危機を迎えます。このとき、戦争を仕掛けた北朝鮮側に中国が加担しました。このことが原因で国連は、中国へ対する経済制裁をおこなうと決定しました。そのため香港では、今までのような中継貿易ができなくなってしまいました。


 ■ 労働人口の流入について


 1950年頃の香港では、中国共産党による一党独裁体制に嫌悪感を示した人々が、中国国内より押し寄せていました。その人々が、香港での新しい労働力として活躍し出します。この頃から香港経済では、加工貿易が盛んにおこなわれるようになりました。


 当時、まだ中国側とイギリス領の新界側との国境線は、開放状態にありました。そのため中国人は、中国本国と香港を自由に往来できたのです。さらにベトナム戦争の頃は、僚船等のボートに乗った難民が次々と押し寄せてきました。これにより、今度は香港の急激な人口増加が問題となりました。


 そのまま放置していては、香港が移民で溢れかえります。そこで政府は、過剰な人口流入を防ぐために” 密入国者の強制送還 ”を開始しました。また既に香港にやってきてしまった大量の難民を放っておくこともできないので、彼らのために住宅や市街地の開発事業を進めていくことにしました。


 元々、香港政庁の基本方針は” 自由放任政策 ”です。しかし問題が起これば、その解決のためには力を尽くします。これは、” 積極的不介入 ”などと呼ばれている方針です。そのような政府の” 過剰介入の回避 ”があったがために、香港経済は” 緩い金融規制 ”や” 低い税率 ”を現在まで維持してこれたというわけです。


 ■ 現在の香港について


 中国に返還された現在でも、香港特別行政区として存在しています。政府の基本姿勢は、以前とほとんど変わっていません。香港の場合、その積極的不介入の名残を、外国企業や外国人がオフショアとして利用しているのです。” 極端に低率な税制 ”と” 数多くの非課税対象 ”が存在するのは、たいへん魅力的です。


 そして、HSBCのような世界格付けでも、最高クラスの銀行の存在が国内外から資金をどんどん集めることとなります。さらに、ここは金融規制がほとんどない地域です。その方針が、世界中から優秀な金融マンや金融商品を集めます。香港を通して、人々は世界中の様々な金融商品で資産運用をおこなうことができるのです。つまり、それがアジアの国際金融センターと呼ばれる香港なのです。



⇒ 資産運用の種類(貯蓄型):海外銀行口座



⇒ 資産運用の種類(投資型):外国株式




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